海外研修記その15 〜ランクル編④〜


朝のエベレスト。ここではチョモランマと呼ぶ方が正しいですね。
ご来光が見たいと思っていたのですが、起きれず。頭が痛くて非常にだるく、動く気がしませんでした。体に力が入らなくて、シュラフをしまうのにえらく時間がかかり、5000mで一晩過ごすと高山病になるんだなと実感しました。


チョモランマに別れを告げ、ランクルでドライバーさんお勧めという道なき道を走ります。ヒマラヤの絶景がすごいんですけど、道もすごい。荒れたダートを走ると頭に響いてだるいことこのうえないし、眠くて眠くてしょうがなくてうとうとしてしまう始末。ああ、もったいない。

こんな風景の中を突っ走りました。

もっといい景色がたくさんあったんですが、道が荒れてると車の中から写真が撮れないので、写真はこの程度です。

オールド・ティンリーからの景色。チョモランマとチョーオユーが写っているはずです。
ここで昼食をとると、だいぶ元気になってきました。



タン・ラ峠(5050m)。8000m級の山がずらり。

白い山とタルチョって本当によく合います。

後ろを振り返るとこの景色。360度絶景です。



タン・ラ峠を過ぎると、白い山とはお別れで、後はひたすら下ります。

山に木が生えているのを久しぶりに見ました。すごい勢いで下っていきます。

ネパールとの国境の町ダムに着きました。標高2350m。あったかいと思ったら、夜は結構冷えました。
標高が高い所は眠りが浅くていつも夜中に目が覚めていたのですが、この日はそんなこともなく、久しぶりに熟睡できました。

海外研修記その14 〜ランクル編③〜


何峠かよくわかりませんが、タルチョがきれいです。

途中の町でガイドさんとドライバーさんに何か頼み込んでいる人がいると思っていたら、ヒッチハイクなのかなんなのかよくわからないチベタンが乗ってきました。
トランクで体操座りして、家の近くまで送ってもらったようです。
公共交通機関のないこの辺りではよくあることなのでしょうか。



チェックポスト。関所です。
この道を通る車に乗っている人の身分証明書等を確認します。
今までもいくつかあったのですが、ガイドさんが全部手続きしてくれて、私たちは車の中で待っているだけでした。
ここは全員車から降りるように言われ、建物の中に入り、パスポートの顔写真を1人1人チェックされました。
その後ガイドさんが軍人に旅行日程表?を見せて説明か何かしているようで、待っている間暇だったので、つい写真を撮ってしまいました。

それがこれです。
最低気温マイナス15度かあ。思ってたより暖かい。記念に撮っとこ。くらいの気持ちで撮ったのですが、写真を撮ったのが軍人にばれ、激しくとがめられました。
多分「今何を撮ったんだ!!見せろ!!」というようなことを言われ、萎縮しながら写した写真を見せると、「これならいい」と消去は求められませんでした。
もう1枚前の関所の写真を見せたら、間違いなく激しく怒られて消去されていたと思います。その前の写真を見せろとは言われなかったのでセーフ。
後でガイドさんから「軍人の前でカメラは出すな」と注意されました。
平和ボケしている日本人は、つい忘れちゃうんですよね。



ギャウ・ラ峠(5200m)からの景色。ここからはヒマラヤのパノラマが見えます。
ものすごい絶景ですが、残念ながら逆光。
こんな所にロバ走らせてる人がいることもすごい。

こんなくねくねした道が延々と続きます。

ロンブク・ゴンパ。標高5000m。世界最高所にあるお寺だそうです。

今回の旅の目的地の1つ、エベレスト・ベース・キャンプ(5200m)に着きました。
他に観光客もおらず、この景色貸切ですよ。なんて贅沢。

夕焼けに染まるエベレストはとてもきれいで感動的なんですが、残念ながらここにも軍人がいるんですね・・・。


エベレスト・ベース・キャンプを出る頃には、薄暗くなってきていました。
ガイドさんは最寄りの町であるティンリーまで行き、ティンリーに泊まろうと言いましたが、こんな絶景をろくに景色も見ずに走るだけなんてもったいないし、朝のエベレストも見たかったので、ロンブク・ゴンパに泊まりたいとごねました。
ガイドさんは、ロンブク・ゴンパのホテルはしょぼいし、高山病になると反対しましたが、日本人3人ともロンブク・ゴンパに泊まりたいと言って、ロンブク・ゴンパの横のホテルに泊まることになりました。
観光客はエベレスト・ベース・キャンプの近くのテントに泊まるとガイドブックに書いてあったので、テントに泊まると思い込んでいたのですが、それは夏の話で、冬はテントは1つもなく、ロンブク・ゴンパの横のホテルが唯一の宿泊場所のようです。当然のように他の泊まり客はなし。
そもそもエベレスト・ベース・キャンプは、オフ・シーズンだからランクルで行けましたが、夏は規制がかかり、ロンブク・ゴンパから歩かされるようです。


5000mですから当然ですが、寒い。電気がない。水が出ない。ろうそくの明かりとヘッドランプだけが頼りです。
台所に行くと、羊の糞(?)を燃やすストーブで暖を取り、料理を作っていました。暖かいものが食べられるだけ大満足でした。
夜トイレに行くのは寒かったけど、星がすごくきれいでした。
泊まる部屋に暖房は一切なかったですが、日本から持参したダウンシュラフの上から、布団をたくさんかけて寝たので、思ってたより寒くなかったです。


今回泊まったのはラサ(3658m)とシガツェ(3836m)でそんなに高くなかったのですが、5000mで泊まるのは初めてでした。
4000m台は何回か泊まったことがありますが、私が人生で泊まった中で一番高い所更新です。
高山病はラサで軽い頭痛になったくらいで、電車やランクルで5000m以上の峠をいくつも越えてはきましたが、自分の足で登ったわけでもなく、長時間滞在したわけでもないからか、全然平気でした。
でも、5000mに一晩泊まると、大変寝苦しく、息苦しく、眠りが浅くて夜中に何度も目が覚めました。その度に、ラサで買った酸素のスプレー缶を口にあて、スーハースーハーしてみたのですが、気休めにしかなりませんでした。
酸素が薄いから腹式呼吸で深く呼吸をしないといけないのですが、寝てしまうといつも通りの浅い呼吸になってしまい、酸素が足りなくなるのでしょう。
翌朝は頭痛がして非常にだるかったです。

海外研修記その13 〜ランクル編②〜

<車窓からの風景>

羊の放牧中。寒そう。

働き者のロバたち。

これは羊?ヤク?ドナドナ?

民家。家の上の旗はよく見えませんが、五星紅旗を飾っている家が結構あります。

観光地でのお土産屋さん。みんなあったかそうな格好をしています。5000m超えてるもんね。


<パンコル・チューデ(白居寺)>

ギャンツェ(町の名前)のパンコル・チューデ(白居寺)。特定の宗派に属さず、1959年以前には2000人の僧がおり、学堂がたくさんあったそうですが、文革でほとんど破壊され、現在いくつか再建された状態です。
塀で囲まれた土地の広さの割に、建物がないのが、下のタシルンポ寺と比べると一目瞭然です。

パンコル・チョルテン(大仏塔)。8階建てで各階に複数の部屋があり、それぞれに壁画や仏像が祀られています。


<タシルンポ寺>

シガツェ(町の名前)のタシルンポ寺。ゲルク派の僧院で、ダライ・ラマ1世が創建した寺です。ダライ・ラマに次ぐ宗教的・政治的指導者である歴代パンチェン・ラマが住んでおり、死後はミイラ化されて祀られています。
最盛期には4700人以上の僧がいたそうで、今も800人ほどいるそうです。パンチェン・ラマ10世は、中国共産党に協力的だったため、チベット動乱の際も破壊されず、文革でも比較的破壊されずにすみ、今も大きくて立派なお寺です。

この寺では、パンチェン・ラマ問題に触れざるを得ません。
1949年以来(1949年、パンチェン・ラマ10世は11歳です)、中国共産党パンチェン・ラマ10世を厚遇し、ダライ・ラマに対抗する親中国派のチベット民族指導者に仕立て上げようとしてきました。パンチェン・ラマ10世は中国の影響を強く受け、中国政府の要職にもつき、かなりの親中派でしたが、中国政府のチベット抑圧政策の実状に触れるにつれ、次第に自立性を発揮し、1962年中国のチベット支配を批判した内容の七万言にものぼる諌言を上奏しました。さらに1964年にラサで催された大祈願祭でダライ・ラマを批判せよとの中国共産党の命を受けて演壇に立った際、公衆に向かって「ダライ・ラマ法王はチベットの真の指導者であり、法王は必ずやチベットに復帰されるであろう。ダライ・ラマ法王万歳!」と演説しました。これらの行動によってパンチェン・ラマ10世共産党の激怒を買い、すべての公職を解任され、1968年以降北京で10年間の獄中生活と4年間の軟禁生活を送りました。
パンチェン・ラマ10世は、チベット人から中国の傀儡と見られていましたが、1962年以降の行動により、チベット人の尊敬を受けるようになりました。今、ダライ・ラマ14世の写真を持つことは禁止されているので、チベット人パンチェン・ラマ10世の写真を飾っているそうです。パンチェン・ラマ10世の写真等は、あちこちでアイドル写真のように売られていました。
パンチェン・ラマ10世は1979年に漢人の女性と結婚し、娘が生まれています。これはゲルク派の戒律違反であり、中国共産党が傀儡でなくなったパンチェン・ラマ10世の権威を貶めるために強要したとも言われています。


パンチェン・ラマ10世は1989年に亡くなりました。
1995年にパンチェン・ラマ10世の転生者としてダライ・ラマ14世が認定したパンチェン・ラマ11世(ニマ少年)は、チベット亡命政府の発表から3日後、両親と共に失踪しています。翌年、中国政府はニマ少年を保護する目的で連行したことを認めましたが、ニマ少年やその家族がどうなったかは、現在も不明なままです。
現在、タシルンポ寺には、中国が認定したパンチェン・ラマ11世が住んでいます。パンチェン・ラマダライ・ラマの転生者の認定に大きな影響を及ぼすので、中国はダライ・ラマ15世を傀儡化するためにこのような手段を取ったのでしょうか。究極の内政干渉ですね。

海外研修記その12 〜ランクル編①〜

ランクル編です。ラサを離れ、ランクルチベットの観光地を巡ります。

ラサを出てすぐのところにある川。

ランクルは山道をどんどん登っていきます。

こんなところバイクで走ったらどれだけ気持ちいいだろうなあ。

4750mのカムパ・ラという峠を越えるとヤムドク湖が見えました。
チベット三大聖湖の1つです。
これを見ただけでも、ここまで来て良かったなと思いました。

標高が高くなると、車窓に白い山がちらほら見えるようになりました。

九州人は白い山を見るとテンションが上がるんです。

カロ・ラ峠(5045m)を越えると、ノジン・カンツァン(7191m)という氷河が現れます。
5020mと書いてある石碑の横で氷河を見上げましたが、そんな高いところに立っているのが信じられないくらい体が普通で、氷河も近すぎて7191mもあるように見えなくて、すぐ登れてしまいそうな錯覚を覚えました。
実際登ったら、山頂は見えてるのに登っても登っても着かないということになりそうだけど。あ、この標高でこの氷で登る気はないです(念のため)。

これもきれいな湖、と思ったらダム湖でした。
ダム湖でもすごくきれいだなあと思ったのですが、ヤムドク湖の写真と比べると差は歴然としてますね。

運転席からの景色。バックミラーのところにはお守りがこれでもかとぶら下がっています。
トヨタのマークがなんだかうれしい。日本車はどこでも大活躍です。

閑話

なかなか更新する時間が取れないのですが、カウンターが上がっていくので、適当なネタで更新してみます。


母「これ母の日に買ってー」
私「あんたこの前靴買ってやったばっかりやん。これも買ったし、あれもそうやし、ほらあれも。今年に入って何個買ってやったよ。あんた母の日どれだけあるんよ?」
母「いつも母の日やけど、もうすぐ特別な母の日だから♪」
殴っていいですか?

海外研修記その11 〜ラサ編⑤〜

ラサ編最終回です。
ラサで見たもののうち、一番印象に残っているのはポタラではなく中国軍です。
今までもちょこちょこ書いてはきましたが、政治的な話をどこまで書こうか迷いもありました。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120317/chn12031722390003-n1.htm
でもこういうニュースを見ると書かないといけないなと思います。
ダライ・ラマ14世はチベット旅行者から「チベット人を助けるために何かできないでしょうか?」と聞かれたとき、「一番いい方法はあなたが見てきた真実をできるだけ多くの人に告げることです。そうすることによってチベットの惨状が世界に次第に認識されていくでしょう。」と答えるそうです。
とすれば、やはり書くしかないでしょう。


私は元々中国が嫌いではありません。大学・大学院の寮でのべ5人の中国人と共同生活をしたこともありますし、個々人で見ると、日本人と同じでいい人も悪い人もいます。親切にしてくれた中国人もたくさんいます。
大学時代の卒論は中国外交について書いています。内容はすっかり忘れましたが。
それでもやはり中国という国家がチベットにしていることについては批判的にならざるを得ません。

これはジョカンの屋上からバルコルを歩いている軍人を撮影したものです。
青蔵鉄道の中で、私は軍人にカメラを向けて怒られましたが、ラサでも軍人を撮影しようとすると怒られます。背後からならバレないだろうと写真を撮ろうとすると、チベット人に慌てて止められました。そのチベット人のおじさんは、たまたま近くにいただけの人ですが、血相が変わっていたのでびっくりしました。もし写真を撮ったのが軍人にばれるとどうなるかわからないので止めてくれたのでしょう。
軍人を撮影してはいけない理由、それは、こういう風に世界に知られたくないからでしょう。他に理由がわかりません。


バルコルはラサ一番の巡礼地であるジョカンを取り囲む環状バザールで、いつもチベット人でごった返している賑やかなところです。そのバルコルを軍人が5人組でぞろぞろ歩いているのをしょっちゅう目にします。写真じゃわかりにくいですが、1mくらいの銃も持っています。
のんきに店先を覗いて回っていたら、自分の真横を銃を持った軍人が通って行って、ギョッとすることも珍しくありません。
昔は2人とかで歩いていたらしいですが、2人ではチベット人に襲われたときに負けるということで、今は常に5人組で歩いています。


夜の光景は特に異様です。ラサではそこまで厳密ではないようですが、夜間外出禁止令が出ているので、21時過ぎくらいになると、バルコルの人は激減します。お店はまだ開いているところもあり、人もちらほらいるのですが、通りを歩いている人が昼間に比べると激減します。
その中で、軍人の数は増えます。あっちもこっちも大きな銃を持った軍人5人組が、ザッザッザッと歩調を合わせて歩いており、暗い夜の町で足音が響きます。
はっきり言って怖いです。私も早くホテルに戻らないと撃たれるんじゃないかと思いました。


他の地域で軍人を見たことは何度かありますが、こんなに威圧感を感じたことはありません。
カシミール地方に行ったときも軍人があちこちにいましたが、なんというかやる気がないというか、手を振ると笑顔で振り返してくれるような雰囲気で、あまり怖くありませんでした。
いざ戦いが始まれば、彼等も戦うんでしょうが、彼等は自分の国の人を守ってくれる人たちで、矛先が外に向いていました。
中国軍は矛先が中に向いています。だから、観光客である私も何かそそうをしでかすと、撃たれるんじゃないかと思ってしまうのです。実際チベットには本当に撃たれた人がたくさんいますし。


1950年、「チベット帝国主義侵略者から開放する」との名目で中国軍はチベットに侵攻してきたわけですが、中国がチベットを平和開放したのであれば、なぜ平和開放から60年たった今もこんなに軍人がたくさんいて、一触即発のような空気が漂っているのでしょうか。
青蔵鉄道ができてから、ラサには中国人観光客がたくさん押し寄せているはずですが、これを見ても中国人は何の疑問も持たないのでしょうか。


情報統制もすごいです。
ガイドさんに、「セブンイヤーズ・イン・チベット」を見たことがあるか、のんきに尋ねると、「チベットのことを扱ったものは、映画も本も見ることができない」という返事が返ってきました。
「セブンイヤーズ・イン・チベット」は、ブラッド・ピットが子供の頃のダライラマ14世と交流する映画ですが、そういえば、あの映画は中国軍が悪者として描かれていたから、チベットで見れるはずないか。
言論統制、情報弾圧、中国の批判をするとしょっぴかれる。頭ではわかっていても、わかったつもりでしかないことをリアルに感じました。
戦時中の日本もこんな感じだったんでしょうか。
ちなみに、ウィキペディアには、「セブンイヤーズ・イン・チベット」は中国では上映禁止となり、監督やブラッド・ピットは中国への立ち入りを無期限で禁止されたと書いてあります。なるほど・・・。


ネットカフェに入って、yahooやGoogleで検索しても、アクセスできないサイトの多いこと。このブログはラサでも見れましたが、きっと今は見れなくなっているでしょう。


そもそもチベットは外国人の自由旅行が認められていません。許可証を事前に入手し、予め届け出たルート通りに旅行しなければなりません。未開放地区(要は見られるとまずい所か)も多く、勝手にルートを外れて未開放地区に行ったのがばれたら中国軍に拘束されそうです。


ダライ・ラマ自伝」より。
1950年以降、チベットで実際に起こったことだそうです。著作権的にあれですが、本の趣旨的にセーフということで。


反革命的犯罪者ども」として、複数の生首の写真が新聞に出ていた。
僧院を爆撃し、抵抗運動に参加した者の妻や子供たちが残酷な拷問と処刑にさらされ、僧や尼僧が公衆の面前でお互いに独身の誓いを破棄させられ、人を殺すことを誓わされた。
1950年代に国際法曹家委員会が出した報告書には、チベット人の処刑内容として、磔、生体解剖、腹を裂き内蔵を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、あぶり殺し、撲殺、生き埋め、馬で引きずり回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺す、処刑の最中に「ダライ・ラマ万歳」と叫べないよう舌を引き抜く等が記載されていた。


中国はチベット人夫婦に3人以上の子供を生まないよう強制している。制限を守らなかった者はむりやり堕胎させされ、避妊器具を強制的につけられる。
圧制に対抗して立ち上がると、村ごと破壊し尽され住民は虐殺され、何万人も投獄され、強制労働、自己批判を強いられる。
過去30年にわたる大量殺戮によって、125万人のチベット人が飢餓、処刑、拷問、自殺などで死に、数万人が強制収容所に閉じ込められている。


チベットにいる中国軍を見ていると、「ダライ・ラマ自伝」に書いてあることは本当なんだなあと思えます。
こういう事実は、ネット上で検索するとたくさん出てきます。
ダライ・ラマ14世がインドに亡命して以降、亡命者の数も13万4000人となっており、年々増加しているそうです。亡命者が現在も増加している事実が、平和解放とは程遠い現実が実態であることを示しています。
インドに亡命した人が一番多いのですが、命からがら亡命しても、インドの気候に慣れず、日射病、結核、疫病による死者が続出したそうで、何とも酷い話です。


中国はチベットの文化を破壊して、中国化させようと必死のようですが、漢民族以外の民族を同類の民族とは思っていないですよね。
反抗する者は弾圧すればよいという考え方は植民地そのものです。
中国はチベットウイグルで核実験もやっていますが、漢民族が主に住んでいる地域ではしませんしね。


タルチョ。
峠や寺院などで飾られているチベットの祈祷旗です。青・白・赤・緑・黄の順で、それぞれが天・風・火・水・地を表すそうです。
チベタンが心から笑って暮らせる日が来るように祈ります。

海外研修記その10 〜ラサ編④〜

ジョカンの周りはバルコル(八廓街)という環状バザールになっていて、いろんなお店が立ち並び、いつも人でごった返しています。
買い物客だけでなく、ジョカンの周りを真言を唱えながらコルラしている人もよく見かけます。

仏具屋。
仏教関連の物を売っている店はとても多いです。

八百屋。12月のチベットでは野菜はほとんどとれないでしょうから、中国から鉄道で運んできたものでしょうか。

ヤクバター。売り方が豪快です。

ヤク肉屋。こちらも豪快です。

僧衣専門店。
チベットのマネキンはみんな筋肉隆々としているのでしょうか。

道端で会った女性の後ろ姿。とてもきれいなヘアスタイルで思わず隠し撮りしてしまいました。
バルコルにはつけ毛屋さんがいくつかあって、男の人も長いみつあみをつけて歩いているのを見かけたので、この女性のもちょっと凝ったつけ毛だと思います。なかなかこの髪型を維持するのは大変でしょうから。
チベット流エクステですね。

ポタラで会った小さなお坊さん。
チベットでは子供を出家させることは徳を積むことになるそうで、子供のお坊さんも多いのです。
お坊さんといっても子供は子供で、元気いっぱいに走り回っていました。
とても社交的な子で、言葉が通じないのをものともせずバンバン話しかけてきます。
私が写真撮ってるのを見て、僕も撮ってとまとわりついてきたので、カメラを向けるとポーズを取ってくれました。

こちらもポタラで会った子供たち。
上の男の子が写真撮ってもらってるのを見て、私も僕も撮ってほしいともじもじしていたので撮りました。
デジカメで撮った写真を見せると、すごく喜びます。印刷できないのが残念。
ちょっと緊張した面持ちの笑顔から、純真さが伝わってきます。
途上国の子供の中には、写真撮ったらお金を要求してくるスレた子もいますが、そんな心配は全くありませんでした。

とてもシャイな男の子。
上の子供たちが写真撮ってもらってるのを離れたところでちょっとクールな感じで見ていましたが、やはり写真を撮ってほしかったようで、ポタラを出た後、寄ってきて黙ってカメラを指差しました。
カメラを向けても緊張したままだったけど、すごく喜んでいるのは伝わってきました。
こういうのって言葉が通じなくても気持ちが伝わっていいですね。

バルコルに買い物に来ていた女性たちと女の子かと思うくらいかわいらしい男の子。
写真撮っていいか聞くとちょっと恥ずかしがっていましたが、はにかみながら撮らせてくれました。
やっぱりいい笑顔です。