海外研修記その13 〜ランクル編②〜

<車窓からの風景>

羊の放牧中。寒そう。

働き者のロバたち。

これは羊?ヤク?ドナドナ?

民家。家の上の旗はよく見えませんが、五星紅旗を飾っている家が結構あります。

観光地でのお土産屋さん。みんなあったかそうな格好をしています。5000m超えてるもんね。


<パンコル・チューデ(白居寺)>

ギャンツェ(町の名前)のパンコル・チューデ(白居寺)。特定の宗派に属さず、1959年以前には2000人の僧がおり、学堂がたくさんあったそうですが、文革でほとんど破壊され、現在いくつか再建された状態です。
塀で囲まれた土地の広さの割に、建物がないのが、下のタシルンポ寺と比べると一目瞭然です。

パンコル・チョルテン(大仏塔)。8階建てで各階に複数の部屋があり、それぞれに壁画や仏像が祀られています。


<タシルンポ寺>

シガツェ(町の名前)のタシルンポ寺。ゲルク派の僧院で、ダライ・ラマ1世が創建した寺です。ダライ・ラマに次ぐ宗教的・政治的指導者である歴代パンチェン・ラマが住んでおり、死後はミイラ化されて祀られています。
最盛期には4700人以上の僧がいたそうで、今も800人ほどいるそうです。パンチェン・ラマ10世は、中国共産党に協力的だったため、チベット動乱の際も破壊されず、文革でも比較的破壊されずにすみ、今も大きくて立派なお寺です。

この寺では、パンチェン・ラマ問題に触れざるを得ません。
1949年以来(1949年、パンチェン・ラマ10世は11歳です)、中国共産党パンチェン・ラマ10世を厚遇し、ダライ・ラマに対抗する親中国派のチベット民族指導者に仕立て上げようとしてきました。パンチェン・ラマ10世は中国の影響を強く受け、中国政府の要職にもつき、かなりの親中派でしたが、中国政府のチベット抑圧政策の実状に触れるにつれ、次第に自立性を発揮し、1962年中国のチベット支配を批判した内容の七万言にものぼる諌言を上奏しました。さらに1964年にラサで催された大祈願祭でダライ・ラマを批判せよとの中国共産党の命を受けて演壇に立った際、公衆に向かって「ダライ・ラマ法王はチベットの真の指導者であり、法王は必ずやチベットに復帰されるであろう。ダライ・ラマ法王万歳!」と演説しました。これらの行動によってパンチェン・ラマ10世共産党の激怒を買い、すべての公職を解任され、1968年以降北京で10年間の獄中生活と4年間の軟禁生活を送りました。
パンチェン・ラマ10世は、チベット人から中国の傀儡と見られていましたが、1962年以降の行動により、チベット人の尊敬を受けるようになりました。今、ダライ・ラマ14世の写真を持つことは禁止されているので、チベット人パンチェン・ラマ10世の写真を飾っているそうです。パンチェン・ラマ10世の写真等は、あちこちでアイドル写真のように売られていました。
パンチェン・ラマ10世は1979年に漢人の女性と結婚し、娘が生まれています。これはゲルク派の戒律違反であり、中国共産党が傀儡でなくなったパンチェン・ラマ10世の権威を貶めるために強要したとも言われています。


パンチェン・ラマ10世は1989年に亡くなりました。
1995年にパンチェン・ラマ10世の転生者としてダライ・ラマ14世が認定したパンチェン・ラマ11世(ニマ少年)は、チベット亡命政府の発表から3日後、両親と共に失踪しています。翌年、中国政府はニマ少年を保護する目的で連行したことを認めましたが、ニマ少年やその家族がどうなったかは、現在も不明なままです。
現在、タシルンポ寺には、中国が認定したパンチェン・ラマ11世が住んでいます。パンチェン・ラマダライ・ラマの転生者の認定に大きな影響を及ぼすので、中国はダライ・ラマ15世を傀儡化するためにこのような手段を取ったのでしょうか。究極の内政干渉ですね。